遠州横須賀三熊野神社大祭

4月の第一金土日曜の3日間、遠州地方の祭のトップを飾る

遠州横須賀三熊野神社大祭

 桜も咲き誇る4月の第1金曜日・土曜日・日曜日の3日間、遠州地方の祭りのトップを飾る遠州横須賀三熊野神社大祭が盛大に行われます。

 この大祭の見どころは、神輿の渡御とお供に従う華やかな13台の祢里(ねり)の引き廻しです。笛と太鼓が奏でる祭囃子、そして「シタッ!シタッ!」の掛け声とともに町中を威勢よく曳き廻される祢里の、勇壮かつ華麗な姿に人々も引き込まれ、町は祭り一色となります。(掛川市 いちおしイベント〜)

 

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9分頃から始まる「おかめ」と「ひょっとこ」の掛け合いが楽しいですね


「祢里」

 横須賀では、山車のことを「祢里」(ねり)と呼びます。この祢里の曳き廻しは神輿渡御のお供としての性格を持ち、各種神事の付け祭りとして発達してきました。

 この祢里の形態は「一本柱万度型」といわれ、江戸中期の天下祭を克明に描いた「神田明神祭礼絵巻」の中に、ほぼ同一のものが見られます。

 この形態を持つ山車は、発祥の地東京ではすでに姿を消し、現在ではこの横須賀地区とその近隣に残るのみで大変貴重なものです。

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歴史

  江戸時代の元禄年間(1690年頃)には既に踊りを主体とした祭りが存在していたようですが、現在の様式の原型が作られたのは、享保年間(1720年頃)、当時江戸幕府老中職にあった第14代横須賀城主 西尾隠岐守忠尚(にしおおきのかみただなお)公が、当時の江戸天下祭(神田・山王両祭礼)の祭り文化を横須賀の地へと伝えてからだといわれています。以来、子々孫々と受け継がれてきた280余年の伝統を誇る祭りです。

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三社祭礼囃子

 祭りの時、祢里の上で奏でられ祭りを盛り上げる三社祭礼囃子は、江戸中期の享保年間、横須賀城主 西尾隠岐守忠尚公が参勤交代の折りに、その御家人衆が習ったものが原型とされ、以後横須賀独自の調子が加えられ、今日の形となりました。

 曲目は、大間(おおま)、屋台下(やたした)、馬鹿囃子(ばかばやし)の道中囃子三曲と、昇殿(しょうてん)、鎌倉(かまくら)、四丁目(しちょうめ)の三曲からなる役太鼓があります。

 囃子道具として小太鼓2 、大太鼓1、すり金1、特一本調子の篠笛2が用いられます。また、この演奏にあわせて「ひょっとこ」「おかめ」の面をつけた手古舞(てこまい)がつきます。

 三社祭礼囃子は、古い歴史とその比類のない名調子を認められ、昭和30年に静岡県指定無形文化財第1号に指定されました。

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中学生以下とは!唖然

9月中旬の祭り「ちい祢里(ねり)」

中学生以下の子供たちだけで祢里を引く伝統行事

 春に行われる「三熊野神社大祭」に対して、秋に行われる横須賀地区の祭礼を「ちいねり」といい、9月中旬の土曜日から日曜日にかけて行われます。

 ちいねりは、水神宮、軍神社、愛宕神社、松室神社など、横須賀地区に古くからある神社の祭礼で、その歴史は明治の中期頃にまで遡ります。当時は子どもが竹の棒を担ぎ、それをたたいて回ったともいわれ、現在のように春の大祭と同じような形式になったのは昭和40年代前半頃です。

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このちいねりは、中学生以下の子どもたちだけで祢里を引く伝統行事で、準備、太鼓の指導から当日の祢里の運行に至るまでも、中学生以下の子どもたちだけで取り仕切ります。このような形式での祭典運営は全国を見渡してもあまり類をみない珍しいものです。

 

 祭典当日は、春に行われる三熊野神社大祭の祢里に比べて、やや小型の祢里を子どもたちが引き回します。(掛川市 いちおしイベント〜)

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1分ころから始まる夜の練り、とても子供(中学生以下)とは思えませんね